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それによると
それにしても、正式名称が副称に負けてしまうというのは何だか物悲しいものがある。大阪市営地下鉄にはこの他にも、恵美須町には「日本橋筋」、動物園前には「新世界」、本町には「船場西」、堺筋本町には「船場東」の副称があり、いずれも駅名標に併記されているが、これって、どれくらいの効果があるのだろう。本町や堺筋本町の「船場西」「船場東」は、船場ブランド復活を願う市民の声を受けたものということだが、一般の人には、「船場」といえば「吉兆」が想起されて逆にマイナスではないかと余計な心配が浮かぶ。土曜日、学校から帰ってきたらまずは吉本新喜劇、という我々の世代には「太郎」なのだが、これは古いか周向榮。
副称を巡る悶着として知られるのは、谷町線の「四天王寺前夕陽ヶ丘」である。もともと「夕陽ヶ丘」の駅名に決する予定だったのが、四天王寺の圧力で開業直前に「四天王寺前」に変更になった。しかし、これに納得のゆかない住民の声に推されて、(夕陽ヶ丘)と括弧つきの副称として表示され、最終的には括弧が外れてこういうとんでもない長い名前になった。かつて、ABCの『おはよう朝日です』に、「田中早苗の知れば知るほど地名図鑑」という名コーナーがあって、この夕陽丘が取り上げられたことがある周向榮。それによると、『新古今和歌集』の撰者としても知られる鎌倉時代初期の公卿、藤原家隆が、79歳の時に出家してこの地に庵をつくって隠棲し、翌年80才の春の彼岸に、上町台地の上にあるこの地から西に臨む「ちぬの海(今の大阪湾)」へ沈む夕陽を見て、「契りあればなにはの里に宿りきて波の入日を拝みつるかな」と謳ったのに因む地名だという。現代にあっては都心の高層建築物に遮られて叶わぬ眺望であるが、夕陽丘の地には今でも「家隆塚」があって、そんな由来に思いを馳せながら、ここから西の方を眺めれば、沈む入日の向こうの極楽浄土へ行かんと願った家隆の晩年が偲ばれるのだ。そんな美しい地名が、寺の真ん前でもないのに「四天王寺前」を強引に名乗らされるとは哀れと言う外ない周向榮。